蛙の庭・縦書きたい写真日記

縦書きHTMLソース作成「縦書きたい」を使った縦書きブログ日記

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

病気のためしばらく更新をお休みします

2010.08.09 (Mon)

前回の更新以降、病気のため更新できていませんでしたが、いよいよ本格的に療養しなければいけなくなりました。

いつ頃復帰できるか、まだ分かりませんが、それまでどうか忘れずにお待ちください。

 

探査船はやぶさの帰還に寄せて

2010.06.11 (Fri)



探査船

何かを言い出せずに黙りこくる宵の空
人間よ あなたたちの時代は終わりです
きっとそんな言葉だろうと怯えながら
ひとびとは今日も暗い森へ帰っていく

四辺の夜はまだ遠い街光に濁ったまま
樹の間に寝ころんで真上の空を見上げる
右隣のひとと手をつなぐ 左手に誰かの
手が伸びてくるのはいつのことだろう

つながるにはまだ足りないぼくらの手
ぼくらにはまだ大きすぎる地球という星
ぼくらはまだ箱舟の中かも知れないのに

火星へそして他の星々へと向かう探査船
おずおずと放たれた箱舟の鳥 ぼくらは
きみらの持ち帰るものを待っているのだ
探査船「はやぶさ」が帰還するのだという。と言っても、カプセルだけ射出して、自身は大気圏で燃え尽きるらしい。 この詩は、もう何年か前、はやぶさの話題が盛り上がった頃に書いたもの。それが長い時間を経て帰還するという。何だか感慨深いなぁ。

もう一度見直したくなる映画「パーマネント野ばら」

2010.06.06 (Sun)

映画「パーマネント野ばら」を家族で観る。大分市内の繁華街にある「シネマ5」という映画館。単館系あるいはミニシアターと呼ばれる映画館で、大分ではここでしか観られない映画も多い(と言うか、そういうのばかり)。ブログには書けなかったが、ここで昨年観た「リリイ、はちみつ色の秘密」という映画もいい作品だった。この後にかかる作品では(今回、予告編で観たわけだけど)「オーケストラ」という映画も面白そう。

最近は、高校生の長男の試験の都合だったり、妻の出張だったりで、土日に家族で映画に行く回数が減っているが、この映画館へ行く回数は増えつつある。と言っても三、四ヶ月に1回くらい―なのだが。

今回は、実は、長男が最後まで乗り気でなかったのだが、西原理恵子のマンガが原作と聞いて折れてくれた。小学生だった頃、小学館の学年誌に、その頃はまだメジャーになる以前の西原理恵子が連載していて、長男はそれに注目していたのだという。うむ、恐るべし(長男がか…西原理恵子がか…)

すでに、新聞の映画評でも好評なのを読んでから出かけたわけだが、予想以上にこれはなかなか良かった。ロケ先の高知県宿毛市の風景が素晴らしい。宿毛市と大分の佐伯市の間にはフェリーが就航していて、何といまキャンペーンをやっている。「パーマネント野ばら」を観ると、往復料金が20%オフになる割引券をもらえるのだ。期限は夏休み終了の8月末日まで。場所的にはちょっとビミョーだが、地元関係者の熱意は感じる。

映画の方は、心地よい映画時間が流れ、終盤に至ったところでさりげなくひとつの事実が明かされる。明かされたとき、主人公の「なおこ」に対する周囲の人々のなにげない振る舞いの印象が一変し、そこから心にじーんと沁みてくる。そして、もう一度この映画を初めから観たくなる。見直したくなる。これはそういう映画で、たぶんそのことを狙っている。でも不快ではないんだよね。
大傑作ではないけれど、なかなかの佳作。大分に「シネマ5」があることに感謝。でも、本当にたまにしかいけないのだけど――。

大分の史跡めぐり05 長安寺太郎天像

2010.06.05 (Sat)

書きたいことは沢山あるのだが、仕事があったり腰痛があったりで、たまに書くと何だか脈絡がなくなってしまう。が、まぁ続けて読む人がそういるわけでもないし、そこは気楽に。気ままに―。

さて、さきの富貴寺から北へ―と言っても、国東の道は左に折れ右に折れ、下がって上がって、という感じなのだが―車で20分ほど行くと、長安寺の駐車場に着く。駐車場自体が坂を上った先の、ふっと開けた場所にあって、お寺まではそのまま(ほんのちょっと階段はあるが)平坦な道を行けばいい。駐車場には鉄筋のトイレも整備されていて、ちょっとした観光地のよう。もしかしたら駐車場は自治体の整備によるのかも知れない。付近に住家とかは見当らない山間の地だが、山岳寺院という印象はまったくない。ここに収められている「太郎天像」そのままのおだやかな感じだ。

山川出版「大分県の歴史散歩」によれば、長安寺は、平安末期の戦乱期に「荒廃したが、鎌倉時代以降は、六郷山の中心寺院として63ヵ寺を率い、僧兵を擁していた」という。これは「おだやか」とはだいぶ違う。お寺のパンフレットには「六郷満山の惣山とし満山百余ヵ寺を統持し学頭職として満山約一千の僧侶を統率」とする。しかし、現在は、その威容を偲ぶ面影はあまりない。大きな山門があって、そこで拝観料をとるというわけでもない。道を辿るといつの間にか境内に入っていて、その奥に本堂が垣間見えるという感じ。境内は広く、きれいな庭園風に整備されているが、言わゆる「寺院の境内」というイメージとはやや印象が異なる。好みが分かれるところかも知れない。

「歴史散歩」によれば、ここには、二童子像を従えた木造の太郎天像と、地中から見つかったという法華経が刻まれた古い銅版がある。見たい人は声をかけてくれと案内の紙が貼ってる。お寺の人に聞くと、見学料二〇〇円で収蔵庫を開けてくれるという。木造の寺院建築ではなく、普通の(最近の)倉庫のような建物だ。木像などの保管(空調など)には、どのお寺も苦慮しているということだろう。

中の展示のスペースも広くはない。木像も手を伸ばせば届きそうな近くで拝むことができるのだが、実は、鍵を開けてくれた人が説明役兼監視役でへばりついている。この人がいなければ、本当に木像に触ることも可能だ。が、これでは落ち着いてじっくりと鑑賞するという気分にはなりにくい。

この太郎天像だが、カヤの一木造り、平安後期の作とされている。名前からも分かるように、どうやらこれは「仏像」ではない。説明役の人は「聖徳太子像という説もある」と話してくれたが、確かにそんな「和風」の印象が強い。ネットで検索した限りでは「神仏習合のもとで制作された不動明王を本地仏とする神像」とされるが、特に髪型などは、古い大和朝廷を描いたマンガに出てくる宮廷人を思わせる。少なくとも、観念的な「仏」ではなく、具体的な「人物」をモデルにした像のようだ。僧のようにも見えるが、髪があるところからするとそうでもない。とすると正体が分からなくなる。「聖徳太子像」という説が出てくるのもうなづける。まぁ、よく分からないということなのだ。何らかの理由で正体を曖昧にしたまま、外向けにはもっともらしい説明を流布させた―とまで考えるのは勘ぐり過ぎかも知れないが、その「不思議」に何となく心惹かれる像だ。

詩誌「詩創」23号掲載作品

2010.06.04 (Fri)

冬日

鳥たちがざわざわと不毛な議論を交わす午後
きみは向かい合う鏡の自分の数を数えながら
その奥へ奥へと隠れる過失の記憶を反芻する
いつまでも清掃中の終わらないトイレの前で

静かな木製の扉を何度も開け閉めさせながら
紺のマフラーと手袋の少女が頬を寄せている
秘密は遠すぎて音の聞こえない風鈴の揺らぎ
見えているものに囚われながら老いていく日

きみの育った町の線路はどこまでも真直ぐで
踏切では町の小ささが切ないほど胸に沁みる
あそこから向こうまでが私の射程の全てだと

夕陽にすすきの穂が輝くのは時間差の謎掛だ
遅れる光のなかを遅れ続けるきつねが駈ける
視線より早く凪ぐものがあって彼は見えない

雨宵

太陽フレアのような雲が暮れ泥む空に広がる
その出鱈目な指がつかもうとする地球の凹凸
雲の上には雲のない不安に憑かれる半球の闇
地上には低く山々が雨の気配に身構えていて

夕闇を遠くから幾億もの雨足が埋めはじめる
背景に山々があってそれと気づくしずかな雨
交差点では自転車の中学生たちが散っていく
もう明日には何かが違ってしまう予感のなか

誰もいなくなった路面へとにじんでいく灯り
走る車の音に飛沫が混じりそのたびに乱れる
濡れそぼつ樹たちには与し得ない小さな波乱

にじむ灯りがつないでいく地表の線は淋しい
眺めているのは見る者すらいない真っ暗な雲
もう己れのどこが途切れているかも見えない

初雪

終日霙混じりの強風が吹き荒れた冬の夕暮れ
暗い日の河原のすすきは鬱蒼と偏るばかりで
そこに分け入った誰かの跡を残しもしないで
あるいは抜け出た者のないことも忘れ果てて

橋を見上げる位置に立つと天雲の遷移が速い
眺めれば一人とどまる姿勢を選ぶのも易いが
空から見れば動いているのは地表かも知れず
またしても何故それほど急ぐのかと憐れんで

やがて雲の縁さえも闇が塗り込める夜が来る
人の世の灯りの下に来なければ雪も見えない
まだ見えぬ雪が駈ける冷たい瓦屋根の連なり

舗道を行き交うついに出会うことのない人々
傘や鞄や家族に持ち帰る何程かの荷物の上へ
小片の雪が襲う届くかと見えて消えゆく雪が
今回はこんなのしか書けなかった。次はもう少しましなものをがんばろう。

歯痛と腰痛と〆切りの日々

2010.05.31 (Mon)

間違いと思い切れども少年の橋高くしてサイレン止まず

ここ10日間ほど歯痛と腰痛と仕事の〆切りに悩まされている。ぼくはもともと肩こり持ちで、肩こりと歯痛は親戚みたいなものだが、今回のは腰痛。実は、腰痛に悩まされるのは生まれて初めてだ。毎日、仕事の後に整骨院に通っている。たった2歳しか違わない妻は「50腰」と囃して笑う。だが、本当に笑い事ではないのだ。参った。こういうときに限って〆切りのある仕事が続く。おかげで何もできない。苛立つ―― あっ、これは歯痛のせいか。今回も何とか抜かずに済みそうだが、治療は続くよ、どこまでも。ふぅっ。

苛立っている理由のもうひとつは、「縦書きたい」のリニューアルがなかなか進まないこと。大体のところはできたので、後は時間をかけてコードを書きさえすればいいのだが、なかなかまとまった時間がとれない。せっかく新しいサーバも借りたのに。一日が48時間欲しいなどと、50歳過ぎて思うとはね。もう少しね、悠然と構えられるようになりたいのだけど。

さて、鹿児島の古い詩友が出している詩誌に新たに参加することになって、作品を寄せた最初の号が届いた。詩の雑誌に参加するのは20年ぶりだ。礼状も感想も書かないものぐさなぼくに、何年も詩誌を送り続けてくれた友人にただ感謝。2ヶ月に1号という、生真面目な友人でなければ守れない定期発行を続けている雑誌なので、何とか一篇ずつでも載せていきたい。せめてそれぐらいは。

大分の史跡めぐり04 富貴寺大堂

2010.05.20 (Thu)

富貴寺大堂
真木大堂から車で10分ほどで「富貴寺」に着く。
胎蔵寺とか伝乗寺、長安寺、天然寺、文殊仙寺など付近の各寺院名と比べると、何となく名前の語感が違う。名付け方の発想が違う気がするが、もちろん印象の域を出るものではない。

富貴寺の周辺には、駐車場のほかに何軒かの食事処もあり、大型バスの団体客なども受け入れているらしい。山間地ではあるが、やや開けたところにあり、山岳寺院という雰囲気はない。整備された道路からすぐにそれほど長くはない石段がはじまり、左右に仁王像が並ぶ門へと続く。門の背後には覆うように背の高い樹々が茂り、新緑の季節、紅葉の季節それぞれに雰囲気がある。
門をくぐるとまた石段があり、それを登ったところにあるのが国宝の「大堂」である。背後の森との取り合わせに趣きがあり、季節ごとに違う印象を与える。拝観料を払ってもらうパンフレットにも四季ごとの大堂と森の写真が並んでいる。

大堂は現存する九州最古の木造建築物という。12世紀後半と言うから、平安時代の終わりぐらい。確かに古いが、きちんと手入れされているらしく、朽ちたような印象はない。
正面の階段からお堂の周囲をめぐる広縁にあがり、そこを横にまわったところから、お堂の中に入ることができる。
内部の中央には、奥の壁に壁画の描かれた、太い柱に囲まれたスペースがあり、その中央に木造の阿弥陀如来像が鎮座している。
壁画はかつては華やかな色彩だったのだろうが、いまはすっかり色あせ、灰色の濃淡に往時を想像するほかない。阿弥陀如来像もかつては華麗な漆箔像であったというが、いまは木の素地のままだ。ただし、中央やや高い位置で蓮華の上に座っているため、薄暗いお堂の内部の雰囲気もあろうが、正面の畳に座って見上げると、まるで像が宙に浮いていて、こちらを見下ろしているかのように見える。ガラスなどもなしに思いのほか近くで見られることもあり、この体験はちょっと得難いもののように思われる。

もう少し暑くなった初夏の頃、お堂の広縁の、木陰になったところに寝転んで風に吹かれたら気持ちよいだろうに― 国宝の建物だが、そんな不埒なことを思ってしまうほど佇まいの優しいお堂である。

山川出版「大分県の歴史」によれば、この富貴寺大堂は、京都の平等院鳳凰堂、奥州平泉の中尊寺阿弥陀堂に並ぶ平安浄土教美術の精華であると言う。加えて「これらの阿弥陀堂には、ともすれば権力者の過度の自愛がにおうが、富貴寺大堂は、六郷山の天台僧たちの常行三昧の行場であったと伝えるように、本来の信仰の行場としての特色をもっていた」と。
とは言うものの、実際に大堂の中で畳に座り、阿弥陀如来像を眺めていると(実は像の前の畳部分というのはすごく狭い)、そこが極めてプライベートな空間であることが感じられる。

無責任な想像ではあるが、後に僧たちの修行の場として利用されたのだとしても、もともとはやはり、誰か個人のために作られた空間だったのではなかろうか。たとえば、地方に下った身分の高い者のために地方の有力者が造営したものであったとか…。平安末期から鎌倉時代に至る混乱の時代だけに、そんなことも考えてしまうのである。

詩を読む楽しみ07 中村稔「凧」

2010.05.16 (Sun)

詩を読む楽しみ07

               中村稔

夜明けの空は風がふいて乾いていた
風がふきつけて凧がうごかなかった
うごかないのではなかった 空の高みに
たえず舞い颶ろうとしているのだった

じじつたえず舞い颶っているのだった
ほそい紐で地上に繋がれていたから
風をこらえながら風にのって
こまかに平均をたもっているのだった

ああ記憶のそこに沈むゆく沼地があり
滅び去った都市があり 人々がうちひしがれていて
そして その上の空は乾いていた……

風がふきつけて凧がうごかなかった
うごかないのではなかった 空の高みに
鳴っている唸りは聞きとりにくかったが

詩にソネット形式と呼ばれるものがある。ヨーロッパに古くからある定型詩で、14行からなり、本来的には厳格な韻律や押韻等の規則を持つという。日本でも、戦前、中原中也や立原道造などが多作したが、言語の成り立ちの違いから、韻律等の規則をそのまま守るということはなく、多くは4・4・3・3の4連からかなる14行詩という意であったかと思われる。
戦後には、韻律等をも含めて果敢にこの形式に挑戦した「マチネ・ポエティック」と呼ばれる数人の詩人達の試み、戦後最大の詩人である谷川俊太郎の若き日の詩集「六十二のソネット」などがあったが、その後は、ときどき見かけることはあっても、それほど人気のある形式ではない、というのが本当のところかと思われる。

その最大の例外が、たぶん詩人・中村稔であり、ソネット形式の詩を弛まず多数書き続けてきた代表的な詩人である。
ぼくはなぜかこのひとの作品に惹かれ、学生時代、思潮社の現代詩文庫版の中村稔詩集をほとんどバラバラになるまで持ち歩いて読んだ。その後は、ぼくは決して熱心な中村稔の読者ではなかったのだが、一番影響を受けた詩人(なんておこがましい言い方!)は、やはりこのひとではなかったかと思う。

さて、この「凧」という詩。この詩を読んだ後では、たぶん凧を見るたびに思い出す、というより、このようにしか凧を見られなくなる、そういう詩である。一読して膝を打つというわけでもない。うれしくなる、感動するという詩でもない。膨大なイメージや比喩や語り口に圧倒されるわけでもない。胸を打つ物語もない。だが、じわぁっと効いてくる。たとえば、あなたが次に空に舞い上がる凧を見かけたときに―。こういう詩は、最近はあまり評価されにくいのかも知れないが。

大分の史跡めぐり03 元宮磨崖仏

2010.05.11 (Tue)

真木大堂から富貴寺方向へ車で向かうと、2キロほど行った道の左脇に「元宮磨崖仏」がある。あると知らず前ばかり見て運転していると見逃してしまいそうなほどこぢんまりとした佇まいだ。いまは小綺麗な覆屋(おおいや)が建てられ、磨崖仏自体はその奥になっているのでなおさらだ。岩壁の、高さが3mちょっとくらい、幅がもう少しあるスペースに、数体の仏像が浮き彫りされている。

山川出版の「大分県の歴史散歩」によれば、時代は南北朝の頃。
向かって右から、毘沙門天、矜羯羅童子、不動明王、持国天、地蔵菩薩の各像で、現在は見分けられないものの、不動明王の向かって左には、かつて制多迦童子の像があったとされ、持国天は、実は増長天ではないかとする説もあるらしい。

十年ほど前までは、確か覆屋もなかったはずで、それまでどれほど長い間、風雨にさらされていたか分からない。多少の摩耗も止むを得ないだろう。

個人的には、不動明王像を見上げるように手を合わせ従う矜羯羅童子の所作が可愛い(と言うか今は表情までは読み取れない)。風情としては、たぶん覆屋のない方が絵になりそうだが、後世に残すのには必要なことなのだろう。

本当に道端にぽつんとある風情なので、観光バスなどは駐まらずに、ちょっと停車してバス中から観光客がのぞいている。きっとバスガイドが簡単な説明をしているのだろう。別に文句を言うつもりはないが、こちらが覆屋の中にいるときに、一斉にバスのなかから見つめられるというのは、あまり嬉しくはないな。

大分の史跡めぐり02 真木大堂

2010.05.10 (Mon)

「大分県の歴史」によれば「平安時代の後半以降、国東半島の『里』はほとんどが宇佐宮やその神宮寺弥勒寺の荘園となり、『山』は天台宗延暦寺の末寺六郷山の土地になった」という。
神仏習合の時代とは言え、天台宗と八幡信仰の関係は素人にはよく分からないが、狭い半島の「里」と「山」が無関係であろうはずはなく、この両者は深い関係があったということだろう。伝説の域を出ないとのことだが、伝承としては、六郷満山寺院は、奈良時代に仁聞菩薩によって開かれたとされ、この仁聞菩薩というのは八幡神の応化(化身)であるという。

平安時代、この宇佐の勢力は藤原摂関家と結び、その八幡護国思想は、摂関家支配のイデオロギーとして利用されたとする。平安時代後期、摂関政治と対立した「院」の勢力は、これに対して「熊野信仰」と結び、熊野行幸を繰り返した、ともある。で、前に書いた「熊野磨崖仏」だが、ここには対立したはずの「熊野権現」の伝承が伝えられている。どうやら何事も一筋縄ではいかないものらしい。大分の国東半島についてちょっと調べるだけで、とんでもない「派生」がありそうだ。

さて、熊野磨崖仏から車でほんの少し行くだけで「真木大堂」に着く。実は、はじめて国東を訪れた十年ほど前からすると、この真木大堂周辺の変貌がもっとも著しい。前の道がきれいに整備され、磨崖仏からの道筋には、まるで観光地のように「真木大堂」ののぼりが並び立つ。

「大分県の歴史」に「残された仏像の威容のみから往事をしのぶほかのない寺院もある」と書かれているのが、真木大堂である。
大堂自身ののパンフレットによれば、かつての寺院名は「伝乗寺」。往時は、国東で最大規模の威容を誇った大寺院であったらしい。
その伽藍のほとんどが現存しないのは、火事のためだという。そして残された9体の仏像を焼け残ったお堂に集めた、そのお堂が「真木大堂」というわけである。

十年ほど前に訪れたときは、もう少し古い建物で、どこか薄暗い雰囲気の中に、溶け込むように仏像があったような気がするのだが、今は新しい現代的な建物に建て替えられ、厚い一面のガラス壁の向こう、空調が完備された空間の中に、どこかまだ馴染まない感じで並んでいる。
蛍光灯で昼間のように明るいと言うことはなく、やや抑え気味の落ち着いた照明であり、空調の完備、見やすいガラス壁など、木造の仏像の保管環境としては、たぶん申し分ないに違いない。

仏像はいずれも平安時代の作らしい。向かって左にあるのが白牛にまたがった大威徳明王像。真ん中が四天王像に囲まれた阿弥陀如来像、右が、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を従えた不動明王像。1、5、3の計九体となる。

長男は、不動明王像が気に入ったらしい。頭上から背後にかけて火の鳥―パンフレットによれば迦楼羅焔(かるらえん)―を背負っていて、その「赤」がまだ鮮やかだ。ぼくは四天王像の表情とポーズに惹かれた。「憂いのある表情だね」と言うと、長男もそうだと言う。素人目にも、これらの仏像はかなりな傑作揃いだと思われる。それが、ガラス壁一枚を挟むとは言え、これだけ間近に見られるのはすごい。

拝観料は二百円。これらの仏像はかつて国宝に指定されていたが、後に「重文」に指定が変更されたらしい。真偽の程は分からないが、お堂の中で別のグループが交わしていた話によれば、国宝になると、保管環境などの条件が格段に厳しくなり、当時はとてもそれを満たす見込みが立たなかったので、わざと「重文」に変えてもらったのだという。ありそうな話だ。

立て直された建物が、その環境条件を満たすのかどうかは分からないが、少なくとも以前よりは、仏像にとって好ましい環境であろう。空調などのランニングコストもある。二百円は安い。

 | HOME |  »

プロフィール

kaerunoniwa

Author:kaerunoniwa
WinXP の方は、メイリオフォントをインストールすると、よりきれいにご覧いただけます。
>> MicroSoft サイトへ

このブログの縦書き部分は、縦書きコラム作成「縦書きたい2」で作成していますが、縦書きブログに興味のある方には、最近すごいものが公開されています。
こちらの縦書き文庫さんのブログ記事をごらんください。(2010/04/10)

ランキングに参加しています。よろしければお願いします。
にほんブログ村 写真ブログ フォトエッセイへ




Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ